2020年が穏やかに幕を開けた。新年の朝刊の話題は、オリンピックとパラリンピック。 今回のオリンピックでは、パラリンピックが対等に扱われているように見える。国体でも障がい者大会が行われて来たが、一般の関心は低かったように思う。これまでのオリンピックでもパラリンピックのテレビ中継はなく、スポーツ欄の隅に見る程度であった。

今回のオリンピック・パラリンピックが障がい者への関心を高め、理解が深まる場となることを願う。

障がい者という個人は日本社会には存在しない。戸籍法に基づき氏名、生年月日、居所が登録されている。すべての個人は、日本国憲法によって基本的人権を保障された個人とされている。それでは、障がい者とは、いつどのようにして生まれるのか。身体障害、知的障害、精神障害、障害は3つに区分され、これに該当すると障がい者と認定される。認定されると障がい者手帳等が交付され、障がい者年金の受給者となる。障がいを持つことで、社会生活がしづらい人々を経済的に救済するために設けらた制度ということができる。 シャロームの理念を「障がいを持つ人も持たない人も共に生きる社会を目指す」として長年活動してきた。この当初から、障がいは社会関係の中で持つものであるとの考え方をしてきている。生まれたばかりの子が歩けないのは当たり前で、障がいとは誰も言わない。しかし、2歳、3歳になっても歩けないとなると障害児と認定される。正常な発達過程を歩めないと障がい者となる。それも時代とともに矯正補装具の発達で多くの場合で障がいが解消している。強度の近視と老眼の私、江戸時代では、障がい者であったと思うが、現代では眼鏡等の発達で社会生活に支障はない。パラリンピックの選手を見ると、身体の障がいを本人に合わせた補装具により大きくカバーしている。現代科学の粋を集め、これと合体した人間の肉体のもつ可能性の限界への挑戦である。

身体の障がいにより活動範囲は制限され、社会参加の場を狭めていく。障がいへの社会的な理解が進み、それを受け入れるための取り組みが社会全体に波及していくことで、障がいを持つ人々の社会参加の場は大きく拡大していく。パラリンピックが一過性のイベントに終わることなく、共生社会に向けた日本社会にとっての大きな転機となることを期待したい。